療養期間が七年と長かったせいか、いつかこの日が来るという覚悟は出来ていました。
ひとつ目の癌が見つかって、二つ目の転移ではない癌が見つかった時に、父は担当医に「85歳まで生きていたいんだけど、どうかね?」と聞いたら即答で「そりゃ無理です」とハッキリ言われ、まったくその通りになって、それでも医者の言うことはきちんと守り、好きで好きでたまらなかったお酒を断ち、毎朝近所の公園に出かけてラジオ体操をし、毎日朝昼晩としっかり食事をし、いろんな情報を仕入れては週末電車を乗り継いで、母と一緒に美味しいものを食べに行ったりして82歳の生涯を終えました。
家族葬のつもりが両親の弟や妹を呼んだだけで20人を超えてしまい、散歩仲間やラジオ体操仲間に声をかけたら30人を超え、待合室を広い部屋に変えてもらったり、お弁当が少ないだの、トイレットペーパーがありませーーん!だの、なんだかバタバタしたものの、ちゃんとしたお葬式に最初から最後まで関わったのは初めての経験で、父が死んでしまったのは寂しくはあるけど、最後の最後に父がお葬式とはこういうもんだと身を持って教えてくれたことに感謝しています。
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私が結婚して家を出た後に何故仲良くなったのかわからなかった人たちがいて、そのご家族も栃木から駆けつけてくれて、出会いから今日までの話を伺いました。
20年前、父が大好きな船村徹さんの特集をテレビで見て故郷の栃木県塩谷町を訪れた際、道に迷って困っていたところ、通りすがりの小さな女の子に道を訊ねたら丁寧に教えてくれて、父が記念にと一緒に写真を撮りました。
女の子は小学四年生。
母が写真とお礼の手紙を女の子に送りました。
手紙には「東京に来ることがあったら案内します」と書いてあり、ご両親は社交辞令だろうと思っていたのですが、女の子は「すぐ行く!絶対行く!」と準備を始めます。
そこで初めて女の子のお母さんが母に電話をかけ、話をしているうちに「これは社交辞令なんかじゃない。会ったこともない人だし、娘を東京に行かせるのも初めてのことだけど、ここで行かせなかったらせっかくのご縁もなくなってしまう」と、そこからはとんとん拍子に話が進みました。
最初は娘さんだけ東京に遊びに来ていたのですが、娘さんがあんまり楽しそうにしているもんだからご両親も我慢できなくなって一緒に東京に来るようになり、父はなかなか顔を出さない私以上にこのご夫婦を自分の子供のように可愛がり、娘さんを孫のように思って、父と母だけで行く予定だった旅行に「来週こんなところに行くけど一緒にどう?」と誘い、また何度も車でふらっと家に遊びに来てくれたりしていたそうです。
旦那さんが泣きながら「亡くなる三日前にも親父さんから電話があって」と漏らした瞬間、父はこのご家族と出会って本当に嬉しかったんだろうなぁと思いました。
私も妹も私のオットも妹の旦那も父のことは「おとうさん」と呼んでいました。
父に一度「うちは女ふたりだから、ひとりくらい男の子が欲しかったんじゃない?」と聞いたら「まぁね」と言いつつ、なんだか嬉しそうだったのは栃木のご家族から「親父さん」と呼んでもらっていたからかもしれません。
親父さんにと持ってきてくれた松井酒造店の「男の友情 船村徹」